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2018年3月時評 歳を取ると楽しめる作品が減るメカニズム

3月も終わりである。桜も咲くだけ咲いてとうに散ってしまった。桜の名所と呼ばれる場所の近くを通り過ぎることはあったが、なぜあんなにも混雑している場所へわざわざ出向くのか未だ理解できない。が、心中を察する。

個人的に3月と言えば米国のアカデミー賞の季節である。映画に順位をつけるという笑止千万な行為の祭典ではあるが、そうでもしないと生きれないのが人の性であるし、楽しんでいるのだから否定し難い。

そんな映画ではあるが(映画に限らずではあるが)、加歳と共に楽しめる作品が減っている気がしている、いや変化しているだけかもしれない。何れにしても映画鑑賞における感性に変化が生じている。これは当然のことと一笑に付すことも可能だが、それもまた一興と言うことで、少し考えてみたい。

なぜ歳をとると楽しめる作品が変わるのか?端的に言えば「登場人物への共感のポイントが変わる」からだ。

高校を卒業した後に、中高生の悩みには共感し辛い。妥協や強制もあったかもしれないが、それらは紛いなりも自分で解答済みの問題だ。同様に、就職して数十年経た後、新卒就職を目指す大学生にも心からの共感は厳しい。「そんな時が自分にもあったね」とは思えど、感情移入をするほど共感はしないはずだ。仮に激しい共感するとすれば、その時期の自分に並々ならぬ後悔があるパータンだろう。

つまり私の仮説をまとめると次の通りになる。

「加齢と共に経験の種類が増え、各々に仮の答えを出し続けた結果、自分の中で既に回答済みの悩みを抱える主要人物の文芸作品は楽しめなくなる。」

例えば大量の小説や漫画を読み、大量の映画を観るとする。そこには実に様々な人生の形があり、実に様々な人生の課題が描かれている。それを対象に受容することにより、自分単体以外の人生のパターンを経験し、さらに実人生の経験とも相まって「こう来たらこう返す」のパターンが大量に生成される。そしてそのパターンも繰り返されるうち洗練され、いつしか確固たる人生の答えになっていく。

正解を知っている問題に悩んでいる人間には苛立ちを覚える。「その時はこうすればいいんだよ!お前の悩みなんて人類の歴史で何億万回と悩まれて、何億万回と解決されてる悩みだ!全っ然特別な悩みじゃない!言うほど特別じゃないから!正解は既にあるんだよ!あるんだから悩んでないで選びなよ!!」と、まぁこんな感じだろう。

だからもし「楽しめる作品が減って来ている」と感じたら、このパターンに入っているのかもしれない。

人間は常に正しい選択だけをするわけではない。そうであれば不倫や戦争は起こらないはずだ。それでも、人類の知恵の蓄積を蔑ろにするのは勿体ない。願わくばより多くの人が同じ轍を踏みませんように。

 

さて、ではそれらを踏まえて次の議論に移ってみたい。世の中には、歳を重ねても同じ作品を愛し続ける人々がいる。変化が生物の宿命だとすれば、彼らの行為を如何に説明すべきなのか?エントロピー増大を止め、彼らは変化を止めてしまったのか?

この現象に対する仮説は2つだ。①その作品が何度も見るに耐える普遍的なテーマを扱っている、②年齢を重ねるし従って共感するキャラクターを変える。

そんなこんなで1200字になってしまった。気が向いたら来月書こう。(1338字)