電車に乗っていたら大塚食品の「MATCH」の広告が目に入って来た。
曰く「青春は、戻らないらしい。」
字面だけ取れば全く素晴らしいキャッチコピーであるが、なぜか微かな違和感を覚えた。今回はその正体を探りたい。
大前提として、この広告はおそらく青春時代と呼ばれる中高生向けの広告であり、齢30を超えた私向けたものでは決してない。言うなればイチャモン的な内容になるが、そこを了承して読み進めてもらいたい。
先に結論から言ってしまおう。私はこう言いたかったのだ。
「青春が終わっても尚、人生は楽しいぞ!!」
と。
「青春」とはなにか?
まずは、言葉の定義を決めよう。
広辞苑によれば青春とは次の通りだ。
年の若い時代。人生の春に例えられる時期
〜広辞苑第六版〜
前半はその通りだろう。一方で後半の部分「人生の春」とはどういうことか。
春と言うくらいだから、少なくともポジティブな意味で使われていると想像はつく。では、何がそんなにポジティブなのか?
青春の一体何がいいのか?
すでに述べた通り、このコピーは中高生向けた言葉である。青春=中高生、青春=良きこと、だとすれば、中高生=良きことである。中高生であるところの、何が良きことなのか?
毎日学校にいかなければならず、宿題やテストもあり、人によっては厳しい部活まである。狭い空間に大勢閉じ込められ、いじめられない程度に人とも上手く付き合っていかなければならない。
そんな青春時代の一体何が良いのか?
考えうるキーワードは、自由と責任である。
少ない責任と大きな自由
中高時代は大人のほどの責任は求められない、一方である程度の自由が許される。それが青春時代だ。
「自由と責任」という言葉がある通り、本来この2つは等価交換の関係だ。自由でありたければ、その代償として責任を負わなければならない。しかし、社会的に大人ではない彼らはその責任を免れている。
つまり青春時代とは、無邪気に自由だけを享受できる時期と言い換えることもできる。
宿題をやらくても、テストで悪い点であっても、すぐに窮地に立たされるわけではない。部活は面倒ならやらないか手を抜けばいいし、好きな人とだけ付き合う自由も、通信制高校に通う自由もある。
ある程度の自由を享受し、しかも責任を負わなくていい、これが青春最大の輝きではなかろうか。
青春ゾンビとは何か?
このCMではロッチ中岡扮する「青春ゾンビ」が登場する。
青春ゾンビはキチンと(?)青春を過ごせなかったおっさんがなるものらしい。
ゾンビは通常、生者を求め彷徨い、そしてその欲求が満ちることない存在である。その満たされぬ欲望こそが、ゾンビの特徴である。
青春ゾンビは「青春」という満たされなかった欲望を求め彷徨う存在なのだ。
青春という若い時にしか感受できない幸福を、決して手に入らないおっさんになっても追い求める悲しき存在、それが青春ゾンビだ。
青春を感受できる者、できない者
青春ゾンビはなざ青春ゾンビになってしまったのか?
その答えもこのコピーにある。一言で言えば「自覚の欠如」である。
「青春は、戻らないらしい」とうコピーには「らしい」という伝聞表現が使われている。「今はそのことに自覚的でない」とうニュアンスが入っている。
それはそうだ、人間は失って初めてその価値に気がつく。親を失って始めてその存在の大きさに気づき、恋人を失って初めて自分の心を埋めてくれていたのか気がつく。
青春もそうだ。青春時代を過ぎて初めてその価値に気がつく。だから時折過去にタイムスリップした自分を想像するのだ。
君は青春の価値に気がついているか
青春の価値、それは耳にはするだろう。「どうやら貴重でかけがえがなくて、大切なものらしい」と。しかし、そこに実感は伴わない。どれだけのものなのかは、青春時代を経てようやく気がつくのだ。
通常は、である。
稀にはあるが青春の貴重さに自覚的な人間がいる。彼らはその自覚ゆえに冒険をする。人の注目を浴びようと努力する。後悔なきよう精一杯頑張る。
ボーッとしている暇はない。
彼らは部活に打ち込み、勉強に精を出し、時には勇気を振り絞って告白する。時には傷つくこともあるだろう、打ちのめされることもあるだろう。しかし、それすらも若気の至り、青春という言葉で片付けるのだ。
そして、同級生よりも経験を積んだ彼らは、さっさと次のステージに進むのだ。彼らは青春ゾンビにはならない。その魂はとっくに浄化されたのだ。
青春は、その刹那的さを自覚した者だけがその幸福を感受できる。自覚できなかった者にその恩恵はない。それこそが、コピーのメッセージだ。
「青春は、戻らないらしい。」 だから「そのことを自覚して、今を精一杯楽しもうor生きよう」とかその辺りだ。
コピーを言い換えてみよう
ここまでを踏まえて一旦まとめてみよう。
「青春は、戻らないらしい。」とは、
「無責任に自由だけを享受できる青春は、どうやら聞くところによると、二度と戻らないらしい。だからその刹那さを自覚して、かけがえのない青春時代を精一杯楽しもう」
というメッセージだ。
だが、あえて言おう。
私はこのコピーに賛同しかねる。
大学でも言われる同じことを言われる
このコピーと似たメッセージを大学時代に聞いたことがある。
曰く「社会人になると遊べなくなるから、今のうちに遊んでおきなよ」と。
これも言いたいことは同じだ、大学生という青春時代を甘受せよ、ということだ。
社会人はそんなに不自由か
社会人はそんなに不自由なのだろうが、仮にそうだとすればあまりにも人生は辛い。40年に及ぶ社会人人生は、まるで奴隷だ。ここは中世の暗黒時代か。
これを読んでいる(いるのかは謎だが)中高生に声を大にして伝えたい。社会人生活はそんなに悪いものじゃない。
人の役に立ちながら生活の糧をもらう、そんな生活は悪くない。人から感謝されつつ稼いだゼニで食べるご飯は美味しい。経済的に独立することは楽しいし、自分で自分の時間を決めれることはストレスがない。
大人になることはそんなに悪いことじゃない。それどころかちょっと楽しい。青春は終わってしまったかもしれないけど、それでも尚、楽しみや喜びを感じる人生は残っている。
それがマッチの広告に感じた違和感の正体だ。
お節介なメッセージ
ここまで読んでくれてありがとう。言いたいことは全部言えた。ここから先はアドバイズのようなものだ。気が向いたら読んでほしい。
自分で言うのもおこがましいが、自分は自分の人生に割と満足している。なぜそう感じているのか、振り返ってみて役にたった3つのことを紹介したい。
絶えず学ぼう
一つ目は「絶えず学ぼう」だ。
同じ話を繰り返す人が嫌われるのは知っていると思うが、その原因はインプットが少ないことにある。入ってくる情報が少なければ、当然出て行く情報も少なくなる。
流れてくる情報を得るのは「学ぶ」とは言わない、それは「知る」だ。3ヶ月、半年後に意味のない情報を得るのはやめて、普遍性のあるものを学ぼう。
特に無けれな、人間、歴史、地球、宇宙、あたりを入り口にすると良い。どれも長い歴史を経て精錬された情報ばかりだろう。
自分が何に幸福を感じるか知ろう
次が「自分が何に幸福を感じるか知ろう」だ。
人にはそれぞれの幸福を感じるポイントがある。しかし、多くの人は社会から与えられた幸福を自分の幸福だと思って追い求める。お金であったり、地位であったり、名誉であったり、見栄であったりだ。
そういった虚栄に囚われると、幸福なハズなのに幸せじゃなくなってしまう。それはあまりに悲しい。
一体自分が何に幸福を感じるのか、それを考えてみよう。それが確立できれば、迷いがなくなる。ストレートに自分の幸福に向かうことができる。1日じゃ答えは出ないかもしれないけど、必要なら相談相手になる。
僕の場合は、絶えずインプットができること、少しアウトプットができること、少し人の役に立つこと、この3つに幸せを感じるらしい。
あなたの幸福は何ですか?
とりあえずやってみよう
最後は「とりあえずやってみよう」だ。
エネルギーは無限にあるようで、加齢とともに減って行く。間違いなく今この瞬間が人生で一番エネルギーに満ち溢れている。
その力を無為に遊ばせるのか、はたまた有効に使うのか。その自由はあなたにある。
興味が引かれたらとりあえずやってみよう。興味が1ミリでも湧くことは、幸せの入り口かもしれない。その結果ダメでもいい。ダメだったという学びが得られる。実行しないことにはその学びすらない。
人生の未完了を減らそう、一つずつケリをつけていこう。やればやるほど精度が高まっていくハズだ。
そして疲れた時はマッチを飲もう。