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けものフレンズも終わったし、人間とは何か考えてみよう【前編】

けものフレンズが終わった。けものフレンズを見ながら「ヒトとは何か」みたいな思考がぐるぐるしていたので、ここで一旦整理しつつ、考察してみようと思う。

「IQ下がる」が代名詞になったこのアニメを考察するのは無粋な気もするが、どうやら世間様的にはルックが受け入れ難いらしい(それは認める)ので、それを説得する材料となれば幸いである。

 

人間とは何か?

先ずけものフレンズを語る上で外せないのが、フレンズと呼ばれるアニマルガール達の存在である。アニマルガールとは結局なんだったのか?物語の定義では「動物をヒト化させたもの」である。ここで最も重要になってくるのが「ヒト化」という言葉である。

 

表面的に見たフレンズのヒト化は、ヒトの外見と言語の獲得である。しかし、ことはそう単純ではない。確かにフレンズ達は動物の特性を持ち、ヒトの外見でヒトの言葉を使う…が、それだけではフレンズ足り得ない。式にして確認してみよう。

 

△動物+ヒトの外見と言語→フレンズ??

 

〇動物+ヒトの外見と言語+<ヒトの何か>=フレンズ!!

 

外見と言語だけでは足りない。フレンズがフレンズ足り得る「ヒトの何か」これは一体何なのだ?これが今回のメインテーマである。つまり、人間について考える時、カバンちゃんの特性について考えるのではなく、フレンズ達に共通する特性を見出すことによって、なんとまぁ逆説的に「人間とは何か」がわかるということである。

 

マークトウェインは「人間は機械に過ぎない」と言ったが、それは人間を説明するには不十分だ。仮に人間が機械であったとして、その時、他の生命も同様に機械に過ぎない。だからマークトウェインの言葉を訂正するなら「人間も機械に過ぎない」であり。それは人間の特異性を説明するモノではない!というのが私の考えである。

 

 自然科学的視座

さて、何事も考える時は、まずは分かっていることを整理する必要がある。まずは僕らがヒトついて知っていることを、なんとなく自然科学的に整理してみよう。論証のために結構な資料とデータを揃えたが、それを出すと残念ながら取っ散らかってしまうので、ここでは結論部分だけに留めておこう。

 

化学:人間の構成成分は、分子としては水素、炭素、酸素、窒素が主な構成要件。物質としては水、タンパク質、脂肪、ミネラルが主成分となる。つまり、特別他の哺乳類と変わることはない。

 

物理:肉体的に脆弱で、猛獣以上の力学的エネルギーを発生させることは出来ず、猛禽類のように鋭利な身体的特徴を持つわけではない。つまり、改めて確認するまでもなく、ヒトは肉体的強さによって地上の覇者になったのではない。

 

生物:前提として、私たち現生人類はホモ・サピエンスである。だから、これから考えることは全て「ホモ・サピエンスについて」ということになる。あと人類=ホモ・サピエンスではない。ホモ・〇〇は過去に複数存在して、その総称が人類である。

 

ここまでが現状の確認であり、ここからが考察となる。


けものフレンズから感じる「優しさ」の源泉

けものフレンズの世界観は、結局、いや終始「優しい世界」だった。そこに異論はないはずだ。序盤こそ「まどマギ」の再来を思わせる不穏さを匂わせ、ドキドキしながら毎週視聴していた。しかし、「まどマギ」のような厳しい世界ではなかった。では、私が感じた優しさとは何だったのだろうか。

 

「優しい世界」と聞いて思い出す作品を挙げてみよう。「みなみけ」「よつばと!」「けいおん!」辺りだろうか。これらの世界に共通する印象は、ひらがな4文字…ではなく、共感、寛容、善意、緩さ、といった単語である。このままではまだふんわりし過ぎているので、一旦逆の「厳しい世界」について考えてみよう…。

 

 「厳しい世界」から考える「優しい世界」

厳しい世界とはどんな世界だろう。同様に思いつくメジャー作品を挙げてみよう。「まどマギ」「カイジ」「闇金融ウシジマくん」「HUNTER×HUNTER」「進撃の巨人」辺りだろうか。

共通するのは、求められ要求が高い(絶対値ではなく本人の体感として)、ミス≒死、つまり1つの判断ミスが死につながる世界ということだ。マミさんは頭を失い、債務者たちはこの世の地獄を見、辛い時に救いの手はなく、ポックルはあっけなく喰われた。

(社会的も含めた)死と隣り合わせの世界で、高い要求に応えるために神経をすり減らし、頭を使い、努力して、行動して...それでも救われない、死んでしまう。それが厳しい世界だ。(忘れてはいけないのは、これらは異次元の話ではなく平和な日常と同時並行的に存在する世界で、特に僕らが野生とか自然とか呼んでいる世界は、どちらかといえばこちらの世界だ。)

 

ここから対義的に、優しい世界の輪郭が見えてくる。優しい世界とは、多くを求められず、神経をすり減らさず、頭を酷使せず、努力を要しない、そして何よりミスをしても死なない世界、まとめると「許され、認められ、失敗しても死なない世界」だ。

みなみけ」「よつばと!」「けいおん!」は、見事当てはまらないだろうか。のんびりと日々を過ごし、周囲の人は常に自分に注意を払い、ライブをすれば大体成功。そこには今日の不快も、将来への不安もない。

つまり、自分にネガティブな感情を起こさせるものから保護され、自由に興味の赴くままに行動し、その結果良くないことは起きても最終的には許されれる世界。

この世界感に身に覚えがないだろうか、そう、これは僕らが幼少期に経験した世界だ。両親という絶対的な存在によって僕らは保護され、周りの大人たちは圧倒的に優しかった。「優しい世界」とは「僕らの幼少期の世界」の様である。

  

結論:このアニメの居心地の良さは「優しい世界感」であるが、「優しい世界」とは自らの幼少期を彷彿させる、安心と優しさにあふれた世界観の事である。

 

フレンズ化におけるヒトの本質は何か?

けものフレンズの「優しい世界」の源泉は確認できた。確かにジャパリパークの住人達はどこか子供っぽい。舌ったらずだったり、考えが短絡的であったり、好奇心が異常に強かったり、何より自分の欲望に足して素直である。しかし、問題はまだ残る。ヒト化の源泉はまだ分かっていない。 

ここまでの話を一旦整理しよう。そもそもの発端はフレンズたちに共通する成分から「人間とはなにか?」を捉えようという試みである。ここで、一つの共通点として「幼さ」があるということになった。

 

しかし、フレンズがフレンズ足り得る要素が子供っぽさというのは些かおかしい。幼さや子供っぽさは、どちらかと言えば動物的(非ヒト的)な成分である。ヒトは動物として生まれて、成長と共に理性や知性を獲得して、人間になっていくものである。試しに先の式に当てはめてみよう。

 

動物+ヒトの外見と言語+<ヒトの幼さ>=フレンズ??

 

やはりしっくりこない。という事は、幼さはフレンズに必須の項目ではない。そういえば、ヒグマやキンシコウの様に子供っぽくなかったフレンズもいた。一体、ヒトに特有なものは何なのだろうか。

ヒトの成分を探しているはずが、どうやら検討違いのところに来てしまった。こういうときは振り出しに戻るべきだ。丁度いい具合に、一挙放送が始まるので、もう一度サバンナ地方から冒険を始めてみよう。

ニコ生「けものフレンズ」初の全話一挙放送 コメント数がアニメ史上ぶっちぎりの400万超えを達成 (ねとらぼ) - Yahoo!ニュース

 

フレンズとヒトと協力

物語を繰り返して気が付いたことがある。この物語は終始「協力」の物語であったということだ。

1話ではカバが、2話ではカワウソとジャガーが、3話ではトキが、4話ではスナネコとツチノコが、5話ではビーバーとプレイリードックが、6話ではライオンやヘラジカ達、7話では博士ことアフリカオオコノハズクと助手のワシミミズク、8話ではペンギン達、9話ではキツネ達、10話ではオオカミとキリン、11話ではキンシコウやヒグマと、

 

そして、

 

そして最終話では全員が「協力」する話だ。

 

最終話、最大の見せ場はフレンズ大集合シーンだ。巨大セルリアンに対し、それまで登場したフレンズが総出演し、その撃退にあたる。結果、囚われのカバンちゃんを救い出す。そして、ここにこそ「人間とは何か」のヒントがあった。つまり、肉体的には強くないヒトが、いかにして地球の覇者になったのか?そしてその力の源泉は、容姿でも、言語でも、知能でもなく、ヒトが「協力」できることに起因する。

 

ヒトの特殊能力

こんなことを言うと「他の動物だって協力してるわ」と思うかもしれない。確かにそうだ、ライオンは群れで狩りを行い、ヌーだってお猿だって群れを形成する。しかし、決定的に違う要因がる、それは協力できる仲間の数である。

 

平均的なホモ・サピエンスと他の哺乳類が闘ってみよう、別にサバイバルでもいい。先述した通りホモ・サピエンスの肉体的は強くない。そんな勝負をすれば大方負けてしまう。遺伝的に近いとされているチンパンジーにさえ勝てないだろう、彼らはホモ・サピエンスから見れば握力300kgの猛獣だ。 

それでは数を増やしてみよう、何人(匹)でもいいが、仮に1万vs1万にしてみよう。この場合、現生人類、つまり我らがホモ・サピエンスの勝利である。なぜか?相手の生物は「一致団結」することができないからだ。

動物は群れを形成する。それでも精々10~30体だ。それ以上の集団を形成し、尚且つい同じ方向を向くことはできない。先に挙げた1万vs1万の勝負をするとしよう、その瞬間、相手の種族は同じ種族内に敵が生まれる。自分の群れ以外の同族は脅威となり、同族の敵に対しては攻撃するか縄張りの外に出すかの行動をとらねばならない。

一方ホモ・サピエンスはどうだろう。確かに基本的な単位は他の生物と同じくらいだ。しかし、我々ホモ・サピエンスは共通項をより高次に持っていくことにより、より大きな集団を形成することができる。

 

人生を振り返ってみよう、地元のイベントでは地域ごとにまとまり、体育祭ではクラスや学年で対抗する。甲子園などの全国大会ではでは学校や県単位で対抗し、社会に出たら組織単位でまとまる。そしてオリンピックまで行けば、国家が単位として扱われる。

 

動物は群れる、そしてヒトは他の哺乳類を圧倒できるほど超巨大な群れを形成することができる。価値観を共有し、それに基づき同じ方向へ向かうこと、これを「協力」という。ヒトはこの「協力」を広範囲、大勢でできる種族なのだ。言い換えればヒトは「万を超える多数が同じ価値観を共有して、それに基づき同じ方向へ向かうことができる種族」である。そして、この生態こそ、ヒトとその他の生物を分かつもの、ホモ・サピエンスの特殊能力である。

 

最終決戦が示すもの 

それではけものフレンズに戻ってみよう。最終決戦はフレンズ達vs巨大セルリアン1体の勝負、つまり多勢vs無勢の戦いであり、フレンズ達の勝利は数の勝利である。そして、それを実現した力こそ「他者との協力」の能力であり。「協力」こそが先の公式に挙げた「ヒトの何か」なのだ。つまりこういう事である。

 

動物+ヒトの外見と言語+<協力>=フレンズ!!

 

結論:ヒトとは大人数で協力できる哺乳類である。

 

さて、ではここで、この結論から生まれる次の問いを投げかけてみよう。それは「なぜヒトは大人数で協力することができるのか?」という問いである。それを後編で考えてみよう。キーワードは「物語」である。

 

*視聴済みの方は久しぶりに視聴してみよう、最高のOPだ…!

 

人間とは何か (岩波文庫)

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