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没頭できることを求めて

東村アキコの「かくかくしかじか」

東村アキコ先生の「かくかくしかじか」を最近読み返した。初めて読んだのは今年の5月だったと思う。久しぶりに会った大学の友達が紹介してくれた。なんでオススメしてくれたかは覚えてない。作者と僕が同郷(宮崎県)だったからか、それともこの漫画を通してなにか伝えたい事があったのか、今は覚えてない。

 

  なんとも赤裸々な話だ。主人公の抱えていた感情は、多少の差こそあれ皆あるのだろう。いや、あると思わされるといった方がいいかも知れない。だから読んだ人は自分の話だと思い、感情移入して涙していまうのだ。これは人の心の奥底にある感覚に触れる作品だ。地元を出る出ないの話。大学に行く行かないの話。新しい生活、友達、親、故郷、恋人、恩師、自分の夢。毎日、その時その時最善だと思って過ごしていても、後になって振り返ると、無駄だと思ったり、全然最善じゃなきゃったり、と。でもやっぱり後にならないとわからないものです。その事を作者は何度も自分を罵ることによって嘆いている。それほど深い後悔だったのだろう。自分はバカだ、アホだ、ダメだ、あの頃に戻りたい、と。そういった心のモヤモヤを何かしらの形で折り合いを付けたくて、この作品を書いたのかもしれない。間違いなく私にとっても大切な物語だ。

 

この話は多層的だ。読んでる人によってささるポイントが異なる。私はどこだろうか?いよいよ追い込まれて夢に向かうところか?あれほど好きだった恋人と簡単に別れてしまったとこか?地元の幸せで美しい日々か?確かにどれも胸にくる話だが、やはり、恩師の言葉と遂にその言葉を獲得する主人公であろう。

日高先生の「描け」という言葉は、彼の生き方を凝集した言葉だった。私達はともすれば頭の中で考えをぐるぐるとこねくり回す。なぜか?なんだ?どうしたい?どういうことだ?何がしたい?得か損か?世間体はどうだ?周りの人の反応は?私とは何だ?人生とは何だ?人間とは何だ?生とは、死とは?宇宙とは?そうして動けなくなることが往々にしてある。でもそうじゃない。描きたいとか描きたくないとか、やりたいとかやりたくないとかじゃない。

 

描きたいものなんてなくていいんや ただ描けばいいんや 目の前にあるものを 描きたいものなんか探しとるからダメになる 描けなくなる(3巻)

 

 人間頭の中で何を考えても自由だ。でもそれじゃあ世の中変わらない。そんな大層なものじゃなくても、あなたの人生も、日常も変わらない。描かなければ何も生まれない。行動しなければ作品も反応も生まれない。やってみれ初めて分かることは多い。頭でこねくり回している時はグルグルモヤモヤと廻っていた思いが、あら不思議、やってみると答えは出る(この答えが出てしまうのが恐怖なのかもしれない)。それでも、そうしなければ人は次にいけない。今描かなければ次は描けない、次の一歩を踏み出すためにはその前の一歩を踏まなければならない。それを一言で表したのが「描け」という言葉なのだ。しかし、それを理解するには主人公は若すぎたのだろうし、先生は言葉が足りなかったのだろう。

 

「描け」と言われて続け進学した大学、しかし「描け」なかった4年間。決して空白ではなかったし、無駄なんてことは無かったのだろうけど、こと「描く」という1点において後悔が大きかったのだろう。この赤裸々な物語は、その贖罪と今もいる当時の自分への応援の物語だと思う。 

かくかくしかじか 1

かくかくしかじか 1